昭和48年02月06日 朝の御理解
御理解 第81節
「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登りきって向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」
信心には、油断が禁物だと言う事を教えておられるわけです。そして向こうへ降りたら安心じゃと仰るように。私共が信心によって安心立命を得ると。安心の大みがけを頂くと、安心の徳を受けるという。そこまで行った時が、おかげだというわけでしょうね。信心に油断は禁物。そこで何時もそうした緊張しきった、何かいつも薄氷の上を渡るような思いと言った様な生き方というものが、色々批判されるわけです。
この頃寒修行の終わりの時に、最後に秋永先生が、挨拶しておりましたのは、そこの所を言っておると思うんです。信心の修行というものは、いつも例えばこう薄氷の上を渡るような危機感と言った様なものを感ずる。そういうものであってはならないという意味のことを、私は言ったんだと思うんですね。そこで私共が、いつも何か知らん油断が出来んというのは、大変厳しく聞こえるのですけれども。
油断を例えて言うと、何と申しますかね、いつも金光様を自分の心の中に頂き続けておかなければおられないと言う事なんですここは。いつも金光様を心の中に頂いておかなければおられないという。その金光様が、実感として遠のいていく、遠いものになっていく。忘れられて来ると言う様な事ではいけない。昨日、午後の奉仕の時でしたか、上野先生が、お届けに来ましてから、学友の方から手紙が来ておる。この頃からここの「おかげの泉」とか、「和賀心時代を創る」といったようなご本を送っておった。
それに対するお礼状が来ておった。そのことのお届けをしておりました。本当に皆さん却って遠隔地で時たま言うなら、月に一回の御理解があの「おかげの泉」には収録してあるわけですからね。その方達が成程ここだ。と思う所を頂いていっておる方達が、本当におかげを受けておるようですね。もう一つのことをはぁこれだと、例えば思う所があったら、それを頂き続けると言う言。思い続けると言う事。私は油断をしてはならんと言う事は、そう言う事だと思うんです。
いつも例えば教えなら教えがです、生き生きとして私の生活の中に、筋金がポーンと一本通っておると言う事。ですからこれは有難いばっかりでしょう。そんなにこう張り詰めたようなものではない。そこから日々生まれてくる体験、一々成程神様のご守護の中にある有難さというものが、どの様な場合でも絶対頂けれると言う所からです。言うなら絶対の認識とでも申しましょうか。
例えば金光様を、心の中に頂き続けておると言う事は言い換えると、私どもの心の中に、和賀心を頂き続けると言う事に精進すると言う事なんです。和賀心を頂く。和賀心を頂く事の為に日々精進しておる。それが一つの教えというものが、一つの教えであってもそれを、成程と合点がいった時に、頂き続けさせて貰う所からです、生まれて来る心。だから成程和賀心になる事に精進しておる、心をそこに向けておきさえすれば、こういうおかげが受けられるんだ。
こう言う事が例えば起こったにしても、それをおかげにしていくのが信心だと。またそれは神愛だという風にです。分かる所から生まれて来るのが、段々最後の所謂安心なんです。どんな場合でも安心が出来る。ですからここん所を繰り返し繰り返しです、頂き続けさせて頂かなければ、絶対と言った様な和賀心をもってする事によらなければ、人間の幸せというものはあり得ないんだと。しかも是は絶対のものなんだと言う所にです。和賀心時代を創ると言う様な、信心が求められるわけです。
自分が先ず和賀心によって、絶対安心の境地も、おかげも受けられるんだという、絶対の確認が出来る心に。確かにそれを自分で認める事が出来る。認める事が出来るから、人にも又それを伝えて行く事が出来るのです。和賀心時代というのは、その様にして広がっていかなければならないものだというわけです。そう言う様な、上野先生のお届けの中に、或る先生が合楽の先生ほど、求道心に燃えておる方は知らないち。という意味の事を言ったという話を、ここでしております。
私もそれを聞かせて頂いて、本当に私程にと言う事は無いにしましてもです、そりゃ沢山そういう求道に燃えておられる方は、沢山ありましょうけれども。私はお道の言葉で使われます言葉の中、「これで済んだとは思いま。」と、「これで良いとは思。」というそういうものが、何時も自分の心の中にある。そして私風にそれを表現するとですたい「これではい。」と言う事なんです。私は何。「これではい。」と。
それでいて、ここでおかげを受けられる人にはです。人に、これには一つの確信を持っておる。今日こういうおかげを受けておるが、こういうおかげを頂くためには、私の言うておることが絶対間違いないから、それを本気で皆さんのものにすれば、おかげになるという。そういう確信とです、そしてその反面にではです、これではいかん。これで済んだとは思いません。と言った様なものではなくてね。私の場合はこれではいかん。という心です。いつもが。ですから、そこからです。
もうどう言う所からでも求めて止まないもの。負うた子にでも教えられる。いわゆる子供の言うならば、そのことを取り上げて、上野先生が言ってるんですよ。いつか大牟田教会の修行生の方が、ここに参拝して来た。その時に大牟田教会の先代の、これは大牟田教会の信心の筋金だと言われる御教えを引用して、その修行生の方が話しておった。私は横で、それを聞かして頂いておって、素晴らしいと思ったから、それを書き写させて貰った。そしたらそれは言葉が、ひょっとして違うかも知れませんから。
的確な言葉を御教えを、帰ってから又送ってくれと、私は手紙でその方に言ったんです。でそれを大牟田の現在の親先生に話したらしい。だから親先生がわざわざ、それこそ中々達筆ですが、その御教えを白紙に書いて、そしてわざわざ私宛に送って下さった。そう言う事があったのを、傍におって見とったです、その人がその先生が。例えば修行生の言うた言葉の中からでも、それを聞き耳を立てる。
これは少し御教えの言葉が違っとったかも知れんと言うたら、そんなら正しい事を、家へ帰ったら、又葉書でも良いから書いて送ってくれとこう私が言った。そう言う様な事をです、合楽の先生の傍におると、何時もそれを感ずる。これは私が何時も是ではいかん。と思うておるから、そこに敏感になって来るんです。より素晴らしいことがあるなら、何時もそれに何時でも切り換えさせて貰おうという姿勢を作っておる。そこから私は日に日にさらと私が思われる。
先日神愛会の時に、若先生が話しておりましたが。初めて寒修行中の御理解を、全部記録してあるのを、初めて全部読ませて頂いた。そして読ませて頂いて、もう愈々驚く事は、その御教えの一コマ、一コマが全部、御理解になっておると言う事。例えば“おかげの泉”なんかでも、少しずつ切ってお話してあるでしょう。その一コマ、一コマが御理解になっておる事、筋が通っておると言う事。もう是は驚くばかりだという意味の事を言ってます。そういうものが、どこから生まれて来るだろうか。
しかも日々。一気に読まなければおられないようなもの。一つの迫力と言う様なものをそこに感じておる。先日の大祭の時に、私が教話をさせて頂きました。それを或る先生が聞きおってから、私が体が弱い弱いと言う事を、良く知っておられる先生ですから。大坪さん、あげな迫力のある話が出来るごたるなら、まぁだ心配無かばのち、言わっしゃった方が。これはまあ皮肉とも、何とも分からんような感じでしたけれどもですね。矢張りあの、迫るものがある。
どういうわけに、迫るものがあるか。どういうものがこの様にして日々、さらなものを生みなしていっておるかと。それは私がいつも、是ではいかんと思うとるからです。それでその事を上野先生と話させて頂いたんですけれども。私が、どれだけ、おかげを頂いても、だから、決して満足しておらない。もう是だけのものが出来たけん、ヤレヤレと言った様なものが、親先生の信心からは感じられない。と上野先生は、昨日そう言っておる。又私も満足は感じてはいない。まぁだ是ではいかんと思うておる。
私はそういう信心からです。例えば油断なんか出来る筈がございませんよね。どれだけ、ほんなら九里半登ったからと言うて、十里登ったからと言うて、油断が出来る筈がありません。ほんならそれが厳しいことかと言うと、嬉しくて楽しくてそれを日々、例えば私の信心を、皆さんが見ておって下さって、はぁ親先生はほんに苦しゅうあんなさろうてんなんてんと思わんでしょう。有難い有難いの中に浸らせて頂いておる事が出来る。先日甘木の平田さんが、お話になっておりましたがね。
最近の金光教は日に日にさらでなからなきゃならんとに、日に日に旧だと、と言う言葉で話しとられました。お互いが日に日にさらな信心を、例えば頂いておったにしてもです。それを行の上に現さなかったりまたは。それを楽しみの信心でなかったならば、それはもう日に日に旧ですから、キュウキュウ言わんならんです。自分の心の中に、昨日壮年部会に本当に心の中に、有難しを感じれるお話。
形の上におかげを蒙っておるお話。まぁ皆良いお話があっておりましたが。帰りがけになってから、永瀬さんからお届けがあったんですけども。親先生今度の寒修行の事でございましょう。昨日の朝こんな御神夢を頂いた。とこう稲をねもう収穫しておる所を頂いた。そすと今度は片一方には、今度は広々とした所を、もう大変な大きな耕運機と言うですか、大変な大きな機械でずうっとこう、耕しておるお夢でございましたと。
これは心の上に感じられ、形の上にまた感じられ、どちらか知らんけれども。心の中に、例えばこれは寒修行だけのことだけじゃない。皆さんご承知のように一家をあげて、このように信心修行が続けられておると言う事がです。ここまでいったならば止めると言った様なものではなかろうと思うです。まぁそれは永瀬さんの言葉にすると、どういう風になってくるか知らんけれども、まぁ言うならば是で済んだとは思われん。と言うのが信心の迫力になってくるんじゃないだろうかとこう思うです。
そこにはね油断のしようが無い。昨日或る方がお話しています、壮年部会で。もう私の嫁が息子さんが何人もおる。けれども長男の嫁ばっかりは、どうもまぁヒステリーちゅうけども、ヒステリーのまぁいっちょ上ん病気があるなら、まぁいっちょ上んとでしょうち言うちから話しておられました。もうそれが夫婦喧嘩はする。そして明くる日はケロッとして、またその仕事場に出て来ておる。それがもう見ちゃおられない。そこで今度寒修行を、家内とお参りをさせて頂くようになってから、家内と二人で話しましたち。
これはとてもどうした嫁後じゃろうかと、私どんが思うておる間は、これはおかげ頂ききらんばいち。いっちょ俺たち夫婦の、親の信心でこれを包含してしまおうじゃないか。包んでしまおうじゃないか。と言うて夫婦で話し合いましたら、もう以来おかげでですね、そのヒステリーよりか、まぁいっちょひどかごたるヒステリーと思われるのがね、穏やかになっとると言う発表をしとります。
昨日日田の綾部さん丁度、午後の奉仕の時お参りをされて。あちらの長男の奥さんのお里、お父さんですたいね。もうお年ですけれども、具合が悪くて休んでおられました。もう何ヶ月でしょうか随分長く。毎日日田の方から、綾部さん所からお届けがあっとりました。大変苦しまなければならない病気だそうですけれども、おかげを頂くようになってから一つもと言うが、苦しい事を訴えない程しにおかげを頂いておる。
それが二三日前亡くなられた。そして本当にお取次ぎを頂いて、おかげを頂くと言う事が、こんなに有難いことだろうかと思わせて頂きますことはと言うて、昨日お礼お届けをしておられましたが。筆と紙を持って来いち。それから筆と紙を持って行った所が、有難うございますと書かれる。それっきり意識不明にならっしゃった。私は本当にお取次ぎの働きというものは、素晴らしいと思うですね。そして一日か二日か意識不明のまま、いわゆる大往生を遂げられたと。
丁度横に高校に行っとられる息子さんが休んでおられた。もう息の切れると一緒だった。ハッと飛び起きてから、今お父さんの体から火の玉が出て行った。ち言うてわんわん泣いておられたというお届けがあっております。もうそう言う所からですね、魂の世界と言った様なものを、私どもが信じんわけにはまいりませんです。だからその魂を、本気で清めようという気になったら、今の○○さんの話じゃないけれどもです。魂を例えば寒修行によって清めた上にも清めてですたい。
まあだそんな事言いなさるばってんち言うて、嫁後が言うなら、どんこん出来んけれども、爺さんと婆さんが二人で話し合ってです。こりゃとてもうちの嫁後は、医者やら薬やら言うて聞かせて出来るこっじゃなかぞと。俺たちのいわゆる和賀心でひとつ包含していこうじゃないか。包んでいこうじゃないかと魂の清まる、その時点でです。その嫁後のそう言う様な所を包含して、和賀心で包んでいこうという気になった。
そしたら形の上にもそれこそ嘘のように、それから穏やかになっとりますと言う事も、所謂お参りをした事はありませんね、そのお爺さんは亡くなられてから。けれども毎日お届けがある。そこにです例えば、本当に有難うございますと、言えれるようなお育てを、そういう修行として神様は受けて下さったんじゃないでしょうかね。そしてもう愈々いけん、もう物も言われんという寸前にです。もうそりゃ有難うございますなんかは、何と書いてあるか分からん位だそうです。
もう意識が愈々駄目だという時に書かれたのが、有難うございますであった。そしてそのまま昏睡状態に入られた。そして亡くなられると同時に、横に寝ておられた息子さんが、今お父さんの体から、火の玉が出て行ったと言うて、わんわん泣いておられたと言う事ですけれどもです。ここに思う事が本当に魂と言う事。又は魂一つでおかげになると言う事。改めなければいけない事が分かるでしょう。しかも、その魂が有難いと言うて、この世を去って行ける程しのです。
私は魂にいわば仕上げておかなければならないと言う事がです。一年二年信心したけん、もうそれで良かと言った様な事が、あって良かろうはずがないのです。そこでほんなら、私の生き方。私は是ではいかんと、いつも思うておると言う事です。それを教祖のお言葉をもってすると、是で済んだとは思いませんという姿勢なんです。けれども私がこれではいかんと思う心をですね。
そういうてほんなら、私の身体の上にも、五体の上にも心の上にも、私なりに一杯のです、信心または修行もさせて頂いて、これではいかんと思いよった。ですからこれが段々、成長していく大きく広がっていく。永瀬さんが頂いておられるように、収穫もさせて頂きながら片一方の方には、それこそこんな大きな機械、見た事もないと言う様な大きな機械で、耕運機が耕して、もう次のおかげの場というものが広がっていきよると言う様なおかげを頂いて行く事ですから楽しいのです。信心は。
ですから九里半登ったら、ヤレヤレと安心しちゃならんと言った様に教えてありますことはです。信心には安心安心と言う事じゃない。油断は禁物だと言う事を教えておられる。そこでそげん油断も出来んなら、とても信心な難しかじゃなくてです。信心というものは、日々が有難い勿体ないで、しかも自分の心の中にです。和賀心によらなければ、人間の真実の幸せはないんだ、とその和賀心による所の幸せというものを、自分自身が頂いて、愈々認識を深めていく。
その認識が、自分の周囲に広められていくと言う事が、和賀心時代を創っていくと言う事なんです。だから絶対の確認を出来る所までです。私はその心というか魂というものを、嫌が上にも清めて行く事に精進すると言う事は、楽しい事なのですから、油断が出来る筈が無い。そう言う所を教えてある。まぁ究極の所は安心じゃと仰る所。向こうへ下りたら安心じゃと仰る。
私どもの心の中にです、いつどんな場合であっても、安心しておれれる程しの、所謂安心立命の大みかげを頂くと言う事が私どもの究極の願いである。そういう大変な願い。それを言い換えますと、生神に向かうと言う事なんです。ですからもうこん位で良かなんて言うことの、あろう筈が無い。それをただおかげだけに、こだわっておりますと、ヤレヤレというおかげを頂きますと。
もうそこに信心が、疎かになると言った様な信心から、いつでもさらなおかげと。心が生まれてくるおかげを頂くために、これはまぁ私の思うておることですけれども。こんな表現を今日初めてさせて頂いておることですけれど。言葉が知らなかった。どう表現して良いか。そのことを、今日思わせて頂きよったら、その私のそれは、これではいかんと思う心だということを頂いて。
ははぁ私のはいつもそれを思うておる。だからこれが本当だと言う事になったら。私はもう皆さんもご承知のように、もうその場で切り替えて、次の信心に進んでおると言う。それでいて自分の信心には、絶対の確信を持って皆さんに、私の真似をすりゃあんた達おかげを頂けれると言えれる。そういう二つのものが心の中に頂けていく。そういう信心をね、身に着けて行きたい。そう言う事を今日の81節から聞いて頂いた訳ですね。
どうぞ。